やけっぱちになるときもあるよ。
やけっぱちになることもある。
もうひとりにして、と。ひとりがいいと。
じぶんを諦めてしまうときもある。
どうせ、いつもこうだ。うまくしゃべれない。どうせ「学」がない、だから仕方ない。ずっとこの先このままなんだ、と。
本当だろうか?私にはわからない。以前、父母について書いたが、その後につづきがある。
口べたで誤解されやすい父は、退職後にいろんなサークルに入り、友人を広げている。たまに意地悪されたりと、暇なご妙齢の方々はなかなかハードだが、父はめげず開拓(?)し続けている。そのつながりで小さな空き地を借りて家庭菜園もしている。借りるとき交渉してきたのは、口べたな父本人だ。
学がない、資格がないからハンパだと言ってた母は、その後働きながら猛勉強して、着付けの師範を取った。そのあと60歳近くなって、1年半かけて「不便だから」と車の免許も取った。
彼(夫)の叔母は、小学生のとき母を失った。小学生の彼女は、毎日遠くの河原までいって母のオムツを洗い、昼は一旦学校から帰宅して母に食べさせる。そして、母を看取った。暗い子ども時代だった、と。そして今、彼女(夫の叔母)は私の文通相手であり、私の母とは電話で時折り話す仲である。昨日、彼女から手紙がきた。「あなたの母上と話していると、亡くなった母と話しているようです。とても懐かしいのです。」そう書いてあった。
彼らは人生の啓蒙書なんて読まない(東野圭吾は読んでも)。淡々と生きてるだけで、勝手にじぶんを立て直していたり、思いがけないところで救われていたりする。
「じぶんを諦めた」うん、諦め大事。でも、それ、「じぶん」じゃないほうがもっといい。失敗しても、万に一、針先のような出口が見つかるかもしれない。
「ひとりぼっちで暗い人生だ」うん、それステキ。でも、苦しくても誰かと関わりあい続けたほうが、もっといい。あなたが誰かに安らぎを与えることがあるかもしれない。
最後に。親がずっと子を見守るように、子も生まれてこの方、親を定点観測しているわけで。人のいろんな失敗やダメさかげん、喜び、悲しみを間近で観察できるのは、ラッキーなことだ。とりあえず親がいてよかったなあ、と思う。
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