ホロスコープが好きな理由。(Ver.ひとり言)

高校生のとき、文化祭でタロット占いの店を出した。当たると評判になって、ふだんも人づてに占って欲しいと頼れるようになった。頼まれるのは友人の友人なので、たいがい占っていたが、お礼としてプレゼントをくれる人まで出はじめて、そこで私は終わりにした。

ここで大事なのは、私のやってたタロットは予言とかじゃないな、と思っていたことだ。タロットが当たっているのも事実なんだろうけど、それは媒体だ。

誰しも、答えや未来を持っていて、私やタロットを鏡にして一人話し合っているだけ、そんな風に思っていた。私とタロットで、その人の分身になって、その人が答えを自分の中から汲み取る助けをしていただけで、予言とかそんなことはしていない。それを当たるといわれるのは、またちょっと違うし、そういうことで金品をもらうならもっとバージョンアップすべきだと思った。でもタロットの勉強をしたいと思わなかったので、そこでやめたのだ。

私にとってタロットは棒占いみたいなところがあって、私は自分をみることができない。私の期待値がそこに振り込まれてしまう。そして絶対それをしない、と言い切れない。面白いことは面白いけども、タロットは私の鏡には向かなかった。

ホロスコープは私には具合がよかった。松村 潔先生がどこかの著書内で「生まれてくるときに、このホロスコープでっていうタイミングで自分で決めてきてる」みたいなことを書いてらして、それは自分で最初に決めた暗号の設計図みたいなものだ。ホロスコープ初心者の私が本片手に読める以上のことがそこにある。惑星の関係性とか・・・とにかく深読みしすぎ、と言われそうでも面白い。読んでも読んでも終わらない本みたいだ。誰かを相手に客観性をもとめて相談するより、今はホロスコープを眺めているほうが私には合っているようだ。

子どもを育てていると教科書通りでは答えがないこともあるし、なにより誰に相談してもたぶん分かってもらえないような、子どものブラックボックスにぶち当たる。子と言えど、他人なので分かりかねる。しかし、育てていく上でこれでいいのかな?と思うことがある。そんな時ホロスコープだ!え?それでいいのかよ、かもしれないが、べつにホロでどうこう決めることはしない。それより、私のクールダウンに役立っているのだ。子どもに逆上してしまったとき、これでよかったのかと自責の念に駆られるとき、ジー-ーッと子どもらのホロスコープを見る。そうすると、なんだ宇宙は広いし、たいしたことじゃない、と思える。私は子どもらにとっての、要因の中のへそのゴマ1粒くらいの影響でしかない、と安心できるのだ。

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